椙尾神社について


由 緒

 欽明天皇任戌(542)年創始で、古代信仰の神跡の地として祭壇に磐座或いは祠堂(ほこらどう)等をもって祀っていたとも伝わります。養老三(719)年現在地に鎮座し、延喜式神名帳に式内社「小物忌神社」として記載があります。

   近郷に稲作が盛んになると風の神の大和國龍田彦神、龍田姫神を勧請し奉りました。

 鎌倉時代に至り出羽国太守(地頭)に武藤氏が任ぜられると大物忌神及び月山神を相殿に勧請し、当社の氏子になって崇敬を厚くし、大祭には「親ら奉幣の前駈後衛をなし、行装を厳かにして御奉仕せられたり。また、臨時に延喜式内社九座の神々を奉招して羽州の総祭を執行せり」と伝わります。戦国時代の終わりに、武藤氏滅亡後、江戸時代になり武藤氏と同様に最上義光(よしあき)の暑い保護を得て、慶長十七(1612)年の黒印百七十石余の最上義光押印の寄進状は、鶴岡市文化財に指定されています。その寄進額は武藤出羽守の十分の一の黒印高と伝わり、武藤氏の当社に対する崇敬の念の高さを伺うことができます。

 元和八(1622)年藩主に酒井氏が入部すると、酒井家もまた代々の古例に従って当社を崇敬し、その庇護を得て、出羽国西田川地区の総社的な役割を担っていました。

 明治以前は小物忌椙尾大明神と呼称され、明治二(1869)年椙尾(スギノヲ)神社と改め、同年郷社に列せられ、同九(1876)年県社に列格されました。

 応永年間(1394~1428年)に武藤左京太夫讃岐守政氏の造営した本殿は、正保年間(1644~1647年)に火災で焼失しました。現在の本殿は、その後、萬治四(1661)年に再建され、更に、大正四(1915)年大正天皇御即位禮記念として内部に大修繕を加えました。三間社流造、銅板葺。拝殿は、文政九(1826)年に建立され、入母屋、銅板葺、正面千鳥破風、平入、桁行8間、梁間3間、正面3間向拝付。向拝木鼻には獅子、欄間には龍、虎、松を模した精緻な彫刻、外壁は板張素地で造られています。

 慶長十三(1608)年最上家家老下対馬守治右衛門実秀及び原美濃守頼秀から寄進の一の鳥居(両部式石鳥居)は、昭和二八(1953)年山形県有形文化財に指定されました。明治三七(1904)年に全国で二番目に創設された「椙尾神社保存会」が、神社の補修維持管理と氏子・崇敬者を取り纏めています。

 明治前、学頭永福寺他六ケ寺、社家六供八太夫を数えましたが、時代とともに神職の御奉仕の形態も変化し、現在社家九家が奉仕していますが、祭典時のみの御奉仕となっています。

 馬町街道の入り口の「一の鳥居」を通って参道を進むと二の鳥居、左手に日露戦争勝利記念の手水社(今は使われていません)右手に武藤家霊殿が鎮座し、階段の途中左右にメッケ犬の狛犬が鎮座し、六十六段の階段を上り詰めると正面に本殿が現れます。境内約37000坪内に本殿、神倉の他に末社7社が鎮座し、老杉古松に囲まれ、古き侍の時代の佇まいを今に伝えています。

 六月五日の例大祭に併催される伝説「めっけ(滅鬼)犬」に因む「大山犬まつり」は、庄内三大祭の一つとして賑わいをみせています。

御祭神:津羽八重事代主神、天津羽羽神、龍田彦神、龍田姫神、月山神、大物忌神

例大祭:6月5日

氏子数:約4千戸

末社7社:八坂神社・八幡神社・大山祇神社・佐田彦神社・桜の宮・武藤家霊殿・皇大神社

社 宝:「三代実録」二十巻、「古事記伝」四十五巻